ネガティブ思考アラフィフがアーリーリタイアするまでの記録

アラフィフの金融業界サラリーマンがネガティブ思考と戦いながらも1日も早いアーリーリタイアも目指してもがく日記

確定申告2021

国税庁ウェブサイトの確定申告書作成コーナーでのオンライン確定申告の入力が終わりました。オンラインの使い勝手は毎年よくなってきていると思うのですが気のせいしょうか。添付書類も簡略化されてきていますし(そのかわりの保存義務はありますが)、なんとか一般人でも申告書類を作れるようにしてやろうという、役所にしては努力している跡が見えます。

ただし、法律的に正式な書類になるから仕方ないのでしょうが、言葉をもうちょっと噛み砕いてくれないですかね。「特措法XX条の・・・」と書かれると、「えーっと、これはなにの控除だっけ?」と戸惑ってしまいます。

確定申告といっても残念ながら給与収入が2000万以上あるわけではなく、副業でがっぽり儲けたわけでもなく、主にふるさと納税を申告(正式名称は「政党等寄附金等特別控除」だそうです)して還付を受けるためです。

還付といえば、今回はイベント料金の払い戻し辞退(「公益社団法人等寄附金特別控除」だそうです)が大きかったです。ざくっというと、払い戻しを辞退したイベント料金の40%が控除されるのですが、実はもっと複雑な制度で、税額控除か所得控除が選べるんですね。これは知らなかった。もっとも、確定申告書作成コーナーでガイダンス通りに入力していくと、勝手に税額控除になっていました。税額控除と所得控除の得な方を自動的に選んでくれるようです。たいして所得ないからこれでいいのかな?

休んだ話(その6:とりあえずの最終回)

休んだ話(その5)の続きです。

休んだ話(その5) - ネガティブ思考アラフィフがアーリーリタイアするまでの記録

 

休んで一週目は家でひたすら寝ていました。ニュースやバラエティーは刺激が強すぎるので、テレビをつけるならばそのとき開催していた相撲を流し続けていました。本や新聞は読まず、ネットもほとんど見なかったと記憶しています。そして二週目からは産業医の指示通り、いつもの通勤の時間に家を出てまずは職場の最寄りの駅まで行き、それからドトールで朝食兼朝のお茶を飲み、開館時間になれば近くの公立図書館に行きました。

そして、クリニックには毎週通いました。休む直前はブロチゾラムとレクサプロが処方されていました。カウンセラーにも二週間に一度通いました。カウンセラーの勧めで日記をつけるようにしました。その日起こったポジティブなことを書き、いいことも起きていることを自覚するようにしました。効果はあったのでしょうか? いまだにわかりませんが、無理矢理にでもポジティブな側面を見つけて書き連ね「明日もなんとかなる」と自分に言い聞かせたことで心のざわつきが少しはおさまった気がします。

結論としては、また二ヶ月の休職となりました。自分としては一月で復帰したかったのですが、産業医から「無理に頑張って再発するよりしっかり治そう」と言われ、渋々従いました。

休むまでは「もう会社に行きたくない。休みたい」と言っていたのに、いざ休むと「早く出勤したい」と思うのはなぜでしょう。他の人と比較してまだ軽症だったのかもしれません。もしくは「このまま休み続けたら社会復帰できなくなる」と焦っていたのかもしれません。

当時の日記を読み返すと、休んだ最初の頃は「働く自信がない」とか「みんなに申し訳ない」という言葉が多かったのですが、徐々に「休ませてもらえてありがたい」とか「復帰してから頑張ればいい」と、状況をポジティブに受け止めた言葉が増えていました。無理にポジティブに書いていたのか、本当にそう受け止めていたのか、今となっては覚えていません。

休職中にトラゾドンも追加になりましたが、二ヶ月経過後に復職OKとの判断になりました。今回も当初の一月は残業なしの条件でした。幸いにもこの条件は守られて、周りのサポートもあり、順調に復職できた気がします。

仕事で求められる質はかわりませんでした。やはり責任はあり、プレッシャーを感じることも多いですが、何らかの心境の変化があったのか、休職前よりは軽く受け流せるようになった気がします。カウンセリングの先生によると「強くなってますよ」だそうです。

また、意識的に年休を消化するようにしました。月に1日は休み、何か楽しめることで時間を使うようにしています。

しばらくは薬を増減させながら様子を見ましたが、復職後2年を過ぎたところで担当の先生が変わったのをきっかけにクリニックに通うことをやめました。その後は薬は服用していません。

 

次に休職するときまで、とりあえずこの項終わり。

休んだ話(その5)

休んだ話(その4)の続きです。

 

休んだ話(その4) - ネガティブ思考アラフィフがアーリーリタイアするまでの記録

 

二度目の休職はそれから6年後でした。転職後の会社では通院せずに順調に仕事を続けられ、自分のキャリアアップを考えて業界大手の同業社に転職したのです。この会社でのポジションはある部門の責任者でした。
 
全てを自分で決断できる代わりに頼ることができる人はいません。「一日も早く成果を出さなくてはいけない」との一心で孤軍奮闘していました。そうしているうちに、転職後一月程度で、早朝覚醒が始まったのです。一度目の休職時以来久々の症状でした。前回の経験を踏まえて、今度は早めに受診することにしました。
 
新しい会社の近くのクリニックに行き、睡眠導入剤ゾルピデムをもらいました。二週間おきに通い、様子を見ることにしました。最初は1錠でしたが、服用しても覚醒するようになると2錠に増えました。
 
そのうち、睡眠だけでなく、職場にいるだけで不安になってきました。自分には決断できない相談の電話がかかってくるんじゃないか、メールが届くんじゃないか、そんなことを考えてばかりで席に座ってられなくなるのです。スルピリドが処方されました。まずは1錠。そのうち2錠。そんなことが続いているうちに、みぞおちのあたりの違和感が慢性的に続くようになりました。
 
薬が増えていくのに症状が改善しない状況は続きます。ふと思いついて、カウンセリングを受けることにしました。医学的には間違っているのかもしれませんが、クリニックで処方される薬はあくまで痛み止めで、本質的な原因をなくしてくれるものではない。原因を突き止めてなくすには心の中に入るカウンセリングが有効ではないかと考えたからです。
 
会社から歩いて行ける距離にあるカウンセラーをウェブで探しました。カウンセリングも二週間おきの頻度で通いました。毎回、その時々の悩みや自分の気持ちを正直に話し、考え方のヒントをもらいました。面談時は少しは気持ちが軽くなる気がしましたが、翌朝目覚めてみるとまたみぞおちが痛く、職場では不安感で一杯になりました。
 
そんなことを続けているうちに、またもやパンクしてしまったのです。もうけれ以上仕事は続けられないが、会社に行かないことも不安だ。成果が出せる状態ではないことが申し訳なく、でも休むことも申し訳ない。そんな葛藤を抱えつつ上司や人事、産業医と協議した結果、強制的に休まされることになりました。その結論に至ったときは、自分でも呆然としてしまいました。「今度こそもうキャリアの終わりだ」と考えました。しかし体は現金なもので、休むことが決まった瞬間にみぞおちの痛みは消えていたのです。
 
産業医からは、休みの間はできるだけ普段と同じ時間帯に起きて寝るよう指示されました。そして、動けるようになったらリハビリとしていつもの通勤の時間帯に電車に乗り、そのあとは何をしてもいいから職場最寄りの駅まで行くように、とも言われました。その程度の活動で心がざわつくのであれば復帰は無理、問題なくこなせるようになれば復帰に向けて準備できる、とのことでした。

 

 その6に続く

休んだ話(その6:とりあえずの最終回) - ネガティブ思考アラフィフがアーリーリタイアするまでの記録

休んだ話(その4)

休んだ話(その3)の続きです。

 

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そんなことをしている間に予定していた二ヶ月になりました。自分としては「職場復帰したい」という思いと「また働けるんだろうか」という不安が入り混じっていましたが、主治医の先生からは「出勤可」という診断書が出ました。これを受けて産業医とも面談し、職場復帰にGOサインが出ました。

最初の一月は残業なし、との条件でしたが、現実は甘くありませんでした。最初の頃は素直に定時である5時で帰っていたのですが、ある日上司に呼ばれ、「部長が『なぜあいつはいつも定時で帰っている?』と言ってくる。帰るのは構わないけど静かにそっと帰ってほしい」と言われました。私も日本のサラリーマンです。「早く帰るな」とは言えない上司の言葉を汲んで、復帰後数週間で以前のように残業するようにしました。

上司、と言えば、休職中に社内体制が変わり、私は問題の上司のラインからは外れ、兼務先だったチームのラインのみで勤務することになりました。なので、部長の言葉を伝えてきた上述の上司とは問題の上司とは別の上司(休む前に診断書が出たことを伝えた上司)です。とは言え、問題の上司は同じ部内におり、部下の悪口を周りに吹聴しているのが私の耳にも入ります。さらに、休職前までは良好だった部長と問題の上司の関係が微妙にギクシャクしてきたようで、二人が口論する姿も目にするようになりました。その度に私は近くのコンビニに逃げ、不愉快なことは見聞きしないようにしましたが、それでも心への負担は大きかったようです。

そんな私の状況を見かねた同業他社に転職していた元同僚が、私をその会社に誘ってくれました。会社の規模は落ちますが変な人はいないという言葉を信じ、職場復帰後半年ほどで転職することにしました。転職することによるストレスが気になったので主治医の先生にも相談したのですが、「問題ないでしょう」とのことでした。

転職後は比較的ゆっくりしたペースで仕事ができ、不愉快なノイズに煩わされることもなく、精神状態も安定していたと思います。主治医の先生には休職明け後も定期的に通院していましたが、転職後一年ほどで自己判断で通院をやめました。静かな住宅街に新しい部屋も見つけ、ソープランドの隣の部屋から引っ越しました。

その先生が経営していたクリニックは数年後に廃業しました。いつも患者でいっぱいだったのでびっくりしました。何が理由で廃業したのかはわかりません。

問題の上司も私と同じタイミングで退社することになりました。直接の原因は部長との関係がこじれたからのようです。同業他社に転職しましたが長続きせず、その後何社か転職したと噂を聞きましたが、いつのまにか業界から去っていたようです。今どうしているのか、全くわかりません。

 

その5に続く

休んだ話(その5) - ネガティブ思考アラフィフがアーリーリタイアするまでの記録

 

休んだ話(その3)

休んだ話(その2)の続きです。

 

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最初の一週間はひたすら寝ていたと記憶しています。先生もそのことを許容していました。難しいことを考えられる状態にはなかったのですが、布団の中で漠然と「このまま仕事辞めることになるんだろうなあ」とは考えていました。仕事できないイコール辞めるしかない、という連想です。
 
二ヶ月の休みの間、医者には毎週通院しました。最初はデパスと名前は忘れましたが睡眠導入剤を処方されました。診察のたびに様子を見て薬を変えたり量を増減させました。当時の記録がないので、投薬の内容がわからないのが残念です。
 
先述の通り、最初の一週間は何もしないで寝ていることを先生は許容していましたが、二週目以降は定時に起き、なにかをするよう指示されました。「なにか」と言っても、先生は難しいことを求めていたとは思えません。しかし私は、何を思ったか一日も早く職場復帰しようとビジネス英語や資格試験の勉強を始めたのです。当然集中できるわけがありません。勉強途中に眠気のあまり机に突っ伏し、メガネを壊したこともあります。今ならば「そんなことする必要ない」と言えるのですが、当時は一日も早い職場復帰に懸命だったのです。
 
その一方で、「会社を辞めないといけないかもしれない」という強迫観念もありました。これも今振り返ると「そんな必要ないのに」という話ですが、仕事をやめて無職になった場合に備えて、そこそこ家賃が高かった部屋から、安いけど都落ち感満載のみすぼらしい6畳一間の部屋に引っ越してしまったのです。それまでと同じ路線でしたが区が変わり、建物の一階がパチンコ屋で隣がソープランドという立地でした。おまけに言うと、最初の部屋には彼女はしばしば泊まりに来てくれたのですが、次の部屋には来てくれませんでした。後から、「あのタイミングで引っ越すことないのになあ、と思ってたのよね」と彼女は言いましたが、だったらはじめに言ってくれよな、という話ですよね。とにかく、誰にも相談せず、独りよがりの発想で決めてしまいました。
 
主治医の先生とは別に、会社の産業医とも月一回面談しました。

 

その4に続く。

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休んだ話(その2)

休んだ話(その1)の続きです。

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そして年明けの出勤初日。「嫌だなー」と思いながら頑張って出勤し、一日机に向かってたのですが、自分の限界を突破してしまったようです。翌日、布団から出れませんでした。上司に「熱があるから休ませてほしい」となんとか電話し(出勤初日に喉がイガイガしていたせいでマスクをしていたため簡単に信用してくれました)、週末まで何をするともなく寝ていました。そのとき初めて、「休職したほうがいいのかもしれない」と考えました。

そして土曜日。診察の日です。私は先生に「もう限界です。会社に行けません」と言いました。先生は何問か質問した後に私に告げました。「まだ大丈夫です。出勤してください」

私は絶望の底に叩きつけられました。自分を救ってくれると思っていた先生から、まさかの死刑宣告を受けたのです。

診察の後に、当時付き合っていた女性と待ち合わせをしていました。先生からの告知内容を知った彼女は私にこう言いました。「だったら医者を変えてみたら? 自分でおかしいと思っているのにまだ大丈夫と言うのは変よ」

私にはない発想でした。診断を求めて病院を渡り歩く人がいるとは聞いていましたが、自分がそうなるとは考えてもいませんでした。しかし、当時の私には彼女のアイディアが一筋の光のように感じられました。セカンドオピニオンを聞いてみよう。それでまた「まだ大丈夫」と言われたらきっと大丈夫なんだ。そう考えることにしました。

そして週明けの月曜日。また1日休みをもらい、職場のそばにあった精神科に行きました。行くのは初めての医者でしたが、他に知っている医者はなく、探す気力もありませんでした。事前予約なしで当日に診察を受け付けてくれました。

診察の後で先生はおもむろに言いました。「これはまずいですね。今日からすぐ会社を休んでください。2ヶ月は休む必要があるとの診断書を出します」

希望をしていた診察結果でしたが、目の前で言われると、どう受け止めていいかわからず、ただ戸惑うだけでした。自分の想いと矛盾するようですが、会社に行かなくていいイコール社会からの脱落、のように受け止めたのです。その一方で、ホッとして気分になったのも事実です。

とはいえ診断書は出ました。私は問題の上司とは別ラインの上司(私は2チーム兼務になっていました)に電話し、実は医者から診断書が出て出勤するなと言われた、と伝えました。会社近くの喫茶店でこの上司に診断書を渡してそのまま帰り、翌日に人事から連絡があってそのまま2ヶ月休むことになりました。

 

その3に続く

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休んだ話(その1)

過去に二度、どうにも出勤できなくなって仕事を休んだことがあります。両方とも二ヶ月休職し、復職しました。「抑うつ」との診断でした。
 
一度目の原因は今振り返ると思い当たる節があります。理不尽上司のパワハラです。罵詈雑言を浴びせられたとか暴力を振るわれた、とかではなく、部下ができない高いレベルの成果を求め、できなければ「なぜできない」とミーティングでチクチクと言う、「あいつは能力が低い」とあちこちに触れ回る、といった行動を取っていました。その上司のチームには私の他に2人の同僚がいましたが、2人とも嫌気がさして退職し、残された私に風当たりが強くなって私も倒れた、というわけです。
 
上司の上司(部長)はこの状況をわかっていたようです。もともとは同僚2人だけが部下として仕えていたチームに私は送り込まれました。同僚への風当たりを分散させるために私を送り込んだのか、私なら上司に対抗できると思ったからか、それとも私は捨て駒として「潰れてもいいや」と思われていたのか、今となってはわかりません。とにかく、チーム内の状況を把握していたにも関わらず、部長はこの上司への対策を講じるのではなく、「あいつら(同僚2人)ではダメだ。まともな奴がほしい」という上司の願いを受けて私をチームに送り込んだことは事実です。
 
実はそれまでは、私は自分ではメンタルが強いと考えていました。周りに休職する人もいましたが、まったくの他人事で「休むくらい大変なことってあるのかなあ」くらいにしか受け止めていませんでした。
 
それが、通勤が憂鬱で、職場の自席に座っているだけで気持ちが悪くなり、胃が強張って食事ができなくなりました。誰かのお土産でもらった饅頭を、食べる意欲がないので引き出しに入れたままにしてしまい、カビを生やしたこともありました。仕事のストレスが原因であるとはわかっていましたが、どうすべきかわからず、日々鬱々としていました。
 
そんなとき、とある人の勧めで心療内科を受診することになりました。それまでは自分の不調がメンタルのせいだとは念頭になかったので、精神科や心療内科に行くことには抵抗があり数週間悩みました。しかし不調は続くので、最終的に「それで症状が治るなら行ってみるか」と割り切って行くことにしたのです。
 
クリニックの先生は投薬に頼るのではなくカウンセリング的手法で問題解決を図る手法をとっていました(と振り返るとわかります。当時は先生の手法を評価する術がありませんでしたが)。結構人気の先生で月一度の通院の予約が精一杯でしたが、三ヶ月ほど通いました。しかし、体調が良くなる実感はありませんでした。睡眠導入剤はもらえましたが職場にいるときの不安感は消えず、食欲もありませんでした。
 
そうこうしているうちに年末休暇になり、不安感は消えないながらも仕事から離れてゆっくり正月を過ごしました。

 

(その2に続きます)

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