必要なことはカーネルおじさんから学んだ
KFC(ケンタッキー・フライド・チキン)が子供の頃から大好きでした。肉屋で惣菜として売っていた唐揚げとは違う独特の風味とジューシーさ、都会に出ないと食べれない希少性など、特別感あふれる食べ物でした。「いつかミニバーレルを独り占めして食べてやろう」と思っていた子供の頃の夢が容易に叶う収入がある今では、チキン2ピースも食べたら胸焼けしてしまいます。世の中ままなりません。
余談ですが、KFCが好きすぎて大学の就職活動で日本ケンタッキー・フライドチキンに応募したくらいです。当時はまだカーネル・サンダース(以下「カーネルおじさん」)から直接指導を受けた人がいて、面接時にカーネルおじさんから指導を受けた時のエピソードを聞かせてもらえたのはいい思い出です。だけど、自分にはバイトを使いこなす店長は無理だなと就職は断念しました。
そして、KFCの創設者カーネルおじさんの生き方から自分のキャリア像に大きなヒントをもらいました。
詳しい話は日本ケンタッキー・フライド・チキンのウェブサイトからダウンロードできる伝記を参照いただきたいのですが、カーネルおじさんはけっこう波乱万丈な人生を歩んでいます。
https://japan.kfc.co.jp/tale/note.html
1890年 生まれる
1904年(14歳)学校をやめて農場の手伝い
1906年(16歳)陸軍入隊
1907年(17歳)除隊。以後、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員などを40以上の職を転々とする。
1929年 大恐慌。ニコラスビル(ケンタッキー州)で経営していたガソリンスタンド倒産
1930年 9月、コービン(ケンタッキー州)にガソリンスタンドを開業。後に食堂とモーテルを併設。目玉料理はフライドチキン
1939年 オリジナル・フライドチキンの製法を完成。コービンの食堂とモーテルが焼失。
1941年 コービンに147人収容の大レストランを再建。
1952年 最初のフランチャイジー
1956年 近くに建設されたハイウエーのために客が激減し、レストランを7万5000ドルで売却。
注目→チキン調理法のノウハウをフランチャイズ化することを思いつき、全米を巡る
1980年 死去
(日本ケンタッキー・フライド・チキンのウェブサイトの掲載の略年譜をもとに作成)
なかなかの波瀾万丈ですよね。しかし素晴らしいのは、逆境でもめげずに次のステップに進んでいること。そして、むやみに未知の世界に飛び込むのでははなく、自分の手持ちのスキルの中から次のステップを選んでることです。特に65歳でレストランを手放し無一文になった時には、「そうだ、俺にはフライドチキンがある! 自分で売るのは限界があるけど、このレシピ欲しい人はたくさんいるはずだから作り方教えればよくね?」とフランチャイズ展開を思いつきます。僕ならすっかり意気消沈して生活保護もらってます。
そんなカーネルおじさんの人生から学んだのは、先のことはわからないから毎日できることを頑張ろう、そしていざというときには自分のキャリアを振り返って使えるスキルを意識的・無意識を問わずストックしておこう、ということです。
キャリアプラニングではよくあるアドバイスとして、「5年、10年後の自分をイメージして成長プランを作ろう」と言いますけど、私はその考え方にずっと違和感を持っていました。明日のこともわからないのにそんな先のこと考えて行動できないよ、と思ってしまうのです。実際、10年前の自分から見て今の自分は全くの想定外の場所にいますし、そもそも新卒で最初の会社に入った時は定年までこの会社にいるもんだと思っていたのに、気がついたら6社目です。ましてや、2010年に、1年後に大震災、10年後にコロナで社会のあり方が一変してそれまでのビジネスモデルが崩壊すると予測できた人はいないですよね?
そんな不確実な未来で自分のあり方を想像して不確かなプランを作るよりも、日々コツコツと与えられたタスクをこなして経験値を上げてスキルを身につけ、路線変更を迫られたときにはストックされていた自分のスキルを時代のニーズに当てはめるようにしておくことの方が私には性に合っているようです。
実践できているかどうかはわかりません。ただ、毎日嫌々言いながらもやるべきことをやっているだけです。
そんなカーネルおじさんの口癖は「決して引退を考えずにできるだけ働き続けろ」「人間は働きすぎてだめになるより、休みすぎて錆付きだめになる方がずっと多い」だったそうです。アーリーリタイア思想の真逆ですね(汗)